円山は本当に「住めば都」?

 昨今の日本語ブームで、書店ではその類の本の売れ行きが好調だそうだ。それにあやかってか、テレビでもその種の番組が多くなったという。私はテレビをあまり見ないからよくわからないが、新聞のテレビ欄を見て、成る程それらしき番組が多いことに改めて気づかされた。
 元々、本来の日本語の使い方なんてものはないと思っている。言葉というものはいつでも時代とともに変遷していくものであるし、それは当然のことである。それにいちいち目くじらを立てて、「だから今の若者の言葉は…」などと声高に叫ぶ人もいるが、私にはそんなことはどうでもいいことだ。
 聞くところによると、「住めば都」を「住むなら都のほうがいい」という意味と考えて使っている若者もいるそうである。どうせ住むのなら辺鄙な田舎よりも都会のほうがいい、素直にそう思ってしまう現代の若者らしい解釈の仕方だと変に感心したりもする。この意味だって、いつかこちらが正当化されるという懸念?もなくはない。
 「気の置けない友」を、いつの間にか「無二の親友」のように捉えている今の状況を鑑みれば、本来の意味を見失い、その韻から意味を憶測し、それがいつしか誤った解釈へと変わっていっても何ら不思議はない。
 『知ってなっとく日本語鑑定団』という本によれば、「だいたい、諺・慣用句は具体的な文脈からとりはずして用いられるので、まったく違った意味や逆の意味内容に変わってしまうことはよくあること」とのことらしい。
 話は戻るが、「目くじらを立てる」とは、些細な欠点を探し出し、責めたてることの意だが、さてこの「目くじら」とはいったい何のことか。調べてみると、それは「目尻」のことで、「目くじり」とも言う。それが転じて「目くじら」となったそうだ。今となれば、「目くじら」を元に戻せるのは、美容整形の医者だけかもしれないが…。
 もうそろそろ、この話題からさじを投げたいと思った時、また一つ疑問がわいた。この「さじ」って何? 早速、インターネットで調べると(実に便利な時代になりました)、「さじ」とは、薬を調合する時に用いる匙(さじ)のことで、江戸時代、医者(漢方医)がこれ以上治療はないと見切りをつけた時に「さじを投げる」と言ったと記してある。そこから、それ以外の場合でも物事を断念する意味で用いられるようになったという。ふーん、成る程、言葉は面白い。
 頭も疲れてきたので、気分転換に散歩にでも出かけようかと思った時、ついでだ、この「散歩」の意味も調べてやれと今度は辞書をめくった。
 『「散歩」とは「気晴らしや健康のために、ぶらぶら歩くこと」』(岩波国語辞典)とある。やはり散歩はいいらしい。やっと安堵した。気の置けない友人とこの「円山」を散歩すれば、それこそ「住めば都」である。いや、住まなくてもここは「都」のはずだ。
 本当にそうかな? また一つ疑問がわいた。

my essay

その1